挑人伝説 ファイナル・・・

 【鉄の匠から創られるアートの世界】



綺麗にエージング加工された金属板金




金属で作られたあやめの花。
緑青がきれいに出ています。


宮村氏は建築板金の基礎技術を活かして

造形物、看板など幅広く製作しています。

銅・アルミニウム・ステンレス
真鍮(しんちゅう)・鉄板などの金属板に
様々な技術を複合させた作品となっており、
薄く平らな金属の板からさまざまなものを創りだします。

板金特有の技術でもある
「ハゼ」※1・「緑青(ろくしょう)」※2で処理することにより
美しい外観を実現しました。

金属に精通しているからこそ出来る技があります。

エージング※3の技術はドラマや
博物館の昔のセットの再現にも生かされています。
従来はペンキなどで錆びているように見せたりしていました。
しかし、『エージング』は実際に金属を錆びさせるので、
錆び具合から素材までよりリアルに製作することができます。
例えば“昭和20年代の煙突で5年間くらい使っているもの
”といったようなものでも、再現可能です。
また看板では頼まれたものだけを作るのではなく、
お店の雰囲気や周りの環境なども踏まえて
ご提案から製作、施工まで一貫して行っております。

このような板金の技術を
活かした独創的な屋根、看板、オブジェは
知る人ぞ知る『逸品』となっています。

それひとつでとてつもない存在感を
発揮する板金アートです!

※1 ハゼ・・・板金加工において板を
         接続する際に用いる折り曲げ部分の事

※2 緑青(ろくしょう)・・・銅または銅合金から出る緑色の錆

※3 エージング・・・素材の持つ性質を利用して
             人工的に老化させ、古めかせる事

 
宮村氏の活躍の模様はhttp://tetsuken.exblog.jp/にて・・・。

*宮村さん 有難う御座いました<m(__)m>    M下。

ドキュメンタリー Chapter 6

 【プロジェクトの今後】

宮村は今後、
もっと若手の育成にも力を入れていきたいと話す。
「落語の世界ではその落語家が何をやってきたかより、
どれだけ良い弟子を育てたかで
落語家の価値が決まる。」と言われている。
そのため宮村は業界は違うが、
「自分も板金技術の継承に
力を入れて次の世代を育てたい。」と話す。
実際に技能検定の前には
全国の教え子達から電話で質問がくるという。

もうひとつの夢。
「名の残るような建物を手掛けていきたい。」
と話す挑人宮村の頭の中には
次のビジョンが見えているのだろう。
宮村は日々進化向上している。

笑顔の宮村。アトリエにて。

ドキュメンタリー Chapter 5

 〔あくまでも独自のスタンスを貫く〕

宮村のスタンスは
新しいものを常に作っておいて、
いつでも動き出せるように心構えすること。

「普段から周囲に目を光らせ、
『あんなのしてみたい、こんなのはどうだろう。』と、
いろいろなアイデアを準備しておく事が大事なんだ」と語る。

例えば、道を歩いていて面白い立体があれば、
頭の中で展開し一枚の板にしてみたり、
ものを常に三次元で見たりするのだという。

また、これからも楽しく先を見据えてやっていき、
作品にはこだわりを持って創っているため、
それを理解してもらえない人とは取引をしない。

今後も、宮村は、変わらずそんな自身のスタンスを貫いていく。

現在、全国を跨いで物件を抱え、
充実した日々を送っている宮村。
これからも板金加工技術で
新しい事に挑み続ける宮村の活躍に今後にも注目である。

ドキュメンタリー Chapter 4

 【右手の怪我という試練】

精力的に仕事をこなす宮村に試練が訪れた。
1997年頃、はさみで板金を切っているときに、
利き手の右手に激痛が走った。
我慢の限界に達して
とうとう医者に診てもらうことにした。

診断結果は宮村にとって信じられないものだった。
それは利き腕の右手親指の中手骨が
なんと骨腫瘍になってしまった。
仕事での使い痛みだった。

宮村の右手はすぐに手術が必要との事だった。

しかし、親指の付け根あたりのところで
神経が多く通る部分だけに
『右腕が使えなくなるかも知れない』
という不安が宮村を襲った。
加えて、右手が使えない間、
仕事を休むわけにもいかない。

しかし、そんな不安と闘いながら
宮村はすぐに試練に立ち向かう。

左利き用のはさみを特注し、
なんと宮村は左手で板金を切る練習をしたのだ。

まるで「与えられたハードルに越えられないハードルはないんだ!」
と表しているかのように。


その後手術は成功して一年のリハビリが終了した時、
宮村は両手ではさみを扱えるようになっていた。

このことを振り返り宮村は語る。
「人生、悩むことはない。」

ドキュメンタリー Chapter 3

 【市場の転換〜住宅から飲食店へ/受注から造注へ】

日本の建築板金業界は
予算を安くしようという考え方が多いの現状だ。
そのため『いかに安く仕事をもらうか』という
考え方の会社が多かった。

少子高齢化が進展する中、
住宅着工件数は確実に落ちる。
需要と供給が逆転すれば、
当然価格競争になる。

よって、業界の反応は当然とも見える。

そんな中、宮村は考えた。
「衣食住の中で、食は絶対になくならない。
家はできなくても、店(飲食店)はできる。しかもサイクルが早い。」

「これだ!」

『変えようと思えば変えられる。』という
思いを胸に宮村は活動を開始する。
業界の人たちと一線を画した反応だった。

宮村は「仕事はもらうのではなく、
取ってくるものだ!」という考えから、
『いいものをつくってくれ。』と
言ってもらえるような人達が集まるホテルやレストランの
オープ二ングセレモニーといった場所に
積極的に行き、板金アートを売り込んでいった。

ドキュメンタリー Chapter 2

〔技能オリンピック世界大会での衝撃〜日本と世界の考え方〕

技能オリンピック世界大会に出場した
当時若干20歳の宮村は
日本では見たこともないような
「世界の板金技術」に触れることができた。

そこで感じたのは日本と海外との[考え方の違い]だった。

具体例として“はさみ”をあげると、
「日本のはさみは隙間が空いていて
金属を切りにくいが
そのはさみを扱えるようになって一人前だ。」
という考え方なのに対して、
逆に海外は切り易いはさみを最初から使い、
はさみの練習に割く時間を
別のスキルアップのために使えばいいと言う
合理的な考え方だった。

日本では「技術力は日本が一番だ。」と
思っている人が多く、実際宮村もそう思っていた。
しかし、宮村は世界の合理性と技術のレベルの高さを実感した。

日本と世界のどちらも見る経験をえた宮村は、
両方の良いところを取り入れて、
宮村自身にしかできないことをしようと決心した。

ドキュメンタリー Chapter1

【幼少期の頃〜サイコロキャラメルの衝撃】 

宮村が生まれたのは東京オリンピックが開催された1964年。
当時板金と言えばブリキが主流の時代であった。
子供の頃から板金技術者の父親の背中を見ていたこともあり
宮村は身の周りにある板金で様々な物を作ったりして遊んでいた。
ある日、幼い宮村の目を釘づけにしたのは
《サイコロキャラメル》であった。
サイコロの形をした箱を開いて
「一枚の紙からこんなものが作れるんや。」と宮村は驚いた。

興味の対象は、年齢を追うごとに、
対象物が《地球儀》になり、《バイクのタンク》になり、
街を歩きながら立体のものを見れば、すぐにあの日見た、
《サイコロキャラメル》の一枚の紙のように分解してしまうのだった。

『面白い!!!』

工業高校を卒業後、
昼間は父親の板金業を手伝いながら
夜間で板金訓練校に通い展開図法など板金技術を学んだ。
このときに宮村は板金の基礎技術を
しっかりと身につけていくことになる。

そして訓練校を卒業後、当時の教官から

「技能オリンピックに出てみないか?」

一つの誘いが来た。

技術者としての腕を試すいい機会と思い、
宮村は出場を決意する。
そして見事大阪予選を勝ち抜き、
そしてついには全国大会でも優勝した。

そこでさらに宮村に世界大会の話が舞い込んでくる。

ものづくりの挑人たち 

 プロジェクトの課題

屋根や外壁、雨樋などの建築板金と呼ばれる業界は

少子化が進む中、

新しい家が建ちにくく不景気のあおりを受けていた。

施工料も抑えられ足元を見られる状態の中、

仕事量が少なくなる一方で企業の数が減るわけでもない。

そうなると周りの企業同士で仕事の取り合いになり、

最終的には値下げで勝負になってしまう。

それに嫌気がさした宮村は『何か新しいこと』をしなければ

板金業界自体が発展しないと感じていた。

宮村は“自分にしかできない付加価値の高い業務”へ

踏み出す決心をする。

絶対に人が必要とするもので、他の人にはできないもの。

挑人宮村の挑戦が始まった。



宮村 浩樹 / Hiroki Miyamura


1964年3月24日生まれ。大阪府板金高等職業訓練学校卒業
小学生の頃から実家には板金があり、ものづくりに親しんでいた。
父親の板金業を手伝いながら技術を習得する。
ものづくり名人として内閣総理大臣賞を受賞した。
現在は技術者として働く他に、
母校である大阪府板金高等職業訓練学校の
講師としても活躍している。
子供の頃の夢は「時代劇の役者」で、
そのために剣道もやっていて2段の腕前である。


※宮村さんの承諾を頂いて掲載しています
ものづくりの挑人たち
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